鉢峰山閑谷院長福寺
鉢ケ峯
長福寺
鉢ケ峯の山林にあり一名小倉嶺といふ
眞宗古儀
菅葺社
初メは當山の艮の方五町許にありこれを襲峯といふ
むかし垂仁天皇八年天照太神鳳凰と化して此襲峯に天降り給ふ
帝其跡を祀給ひ日木野杜神郷といふ
景行天皇二十四年神託によつて武内宿祢に命して社を造る
同五十五年神鳳千種森に移る今の大鳥社これ也
故に大鳥明神初て降臨の地なるゆへこゝに社を建て鎭守とし今二王門の前にあり
金堂
本尊藥師佛日光月光
十二神將を安す
二層塔
五智如來を安す
樓門
金剛力士の二天を安す
開基法道仙人は原天竺の人にして播州法華山に來ツて法華經を誦し密観を修す
持する所に齎具千手大悲の像佛舎利寳鉢一時に此山に飛來ツて法道の庵に入
即精舎をいとなみこゝに安置す
又常に鉢を虚空に飛して供を受る人咸竒也とす故に名を鉢峯といふ
いにしへは堂塔厳重として僧坊四十九院あり其中に閑谷院釋迦院は法道仙人居住の地也
什寳には阿含經の添書あり弘法大師の眞蹟也佛舎利十粒寳鉢一箇㘴具一牧惠亮の独鈷
又弘法大師眞筆の法華經見宝塔品の初一紙小松内大臣自筆の經其外古證文制狀等多し
今に見る鉢峰山閑谷院長福寺(法道寺)
鉢峯山法道寺中門
法道寺全景
法道寺
白鳳時代、天智天皇九年(1670)法道仙人当山に来たり飛鉢の法修せられ、その霊験の著しきにより終に輦下に達し勅願寺として開創され、もと閑谷院長福寺と称され多数の寺院を擁した大寺院であった。享保元年(1716)徳川八代将軍吉宗公の嫡子に長福丸と名づけられてより法道寺と寺号が改められた真言宗の寺である。
承和十一年(844)慈覚大師、仁明天皇の勅を奉じて当山に参籠、薬師の尊像及光背に千体の薬師仏を造刻せらる(本堂中央に安置)、又伝教大師、弘法大師も勅を受けて祈願所とされたが、のちに寺運衰え、加えて元亀、天正の乱を蒙り寺坊も減じ幕末には七坊となり現在は二ケ寺となった。
境内には、鎌倉時代中期に建てられた食堂、室町時代初期の多宝塔があり、ともに国の重要文化財建造物にしていされている。また寺宝には鎌倉時代の十六羅漢像十六幅(土佐将監の筆)は国の重要文化財美術品にしていされている。
堺市
国指定重要文化財建造物
多宝塔
多宝塔軒 組物
下層と上層の中間の白漆喰の亀腹の上に蟇股が見えます
肘木に鯱の彫り物がしてあり、尾が上の肘木を受けています
多宝塔
南北朝時代の中頃に建てられた多宝塔は、どっしりとした安定感のある建物です。多宝塔とは、塔身が円形の一重塔に裳階という庇が付いたことを起源とする建物で、上層の白い漆喰部分の亀腹はその名残であると考えられています。
下層の組物の先端の握りこぶしのような飾りや、上層での扇状に広がる垂木配置などは、禅宗が鎌倉時代の初めに中国より伝わり、日本の建築様式が徐々にその建築様式の影響を受け発展したことを示しています。
また、上層の組物にほどこしてある鯱の彫物や亀腹の上にある蟇股を配置するなどは、大変珍しい意匠で細部にも特徴のある建物です。
【出典:堺市教育委員会設置案内板】
国指定重要文化財建造物
食堂
食堂正面
食堂近景
食堂
鎌倉時代の終わりに建てられた食堂は、僧侶が法会のさいに食事などを行った場所です。傾きがゆるやかな屋根や柱上の簡素な組物などは、奈良時代以降に日本で展開した建築様式の特徴です。現存する食堂は、全国的にもまれで大変貴重です。
【出典:堺市教育委員会設置案内板】
金堂
大師堂
堺市有形文化財指定 金剛力士像
吽形像
阿形像
中門に安置されている金剛力士像
構造は寄木造となっています。
吽行像 294センチメートル
阿行像 296センチメートル
金剛力士像は通常「仁王」という名で親しまれ、寺院の境内を守る者として、門の左右に阿形(あぎょう)・吽形(うんぎょう)の一対で安置されています。
平成14年度から5年計画で実施された、堺市指定有形文化財法道寺金剛力士像保存修理事業に際して吽形像の解体の際、右膝外側から墨書が見出されました。
その墨書によりますと、表側に法道寺(長福寺)僧とみられる人名、裏面には鎌倉時代の弘安6年(1283)4月28日に法道寺の楼門に安置される本像が、奈良東大寺南大門仁王像などを造った運慶の流れを引く出雲法橋圓慶(いずもほっきょうえんけい)ら慶派の仏師集団により造像されたことが記されていました。
鎌倉時代から室町時代にかけて興隆した、法道寺(長福寺)と上神谷(にわだに)地域の仏教文化の精華を現在に伝えている大変貴重な文化財です。
【出典:堺市公式サイト「堺の文化財」
中門の木造二天立像
阿形像
吽形像
中門 木造二天立像(阿行 吽行)
670年に法道仙人が開創したとされる大阪府堺市有数の古刹法道寺の二天像は、詳しい伝来などは不明であるが、像の持つ力強さや彫りの豪快な感覚、さらに残存する彩色の様子などから、南北朝頃の制作と考えられる、寄木造りの像である。邪鬼を踏みしだいて立つ2メートル近い像の大きさのみならず、現存する体幹部の様子から、すぐれた造型感覚と彫塑技術を持つ仏師の手になるものと考えられる。
現況は、頭部を中心に破損がひどいが、部材自体の欠失はそれほどでもなく、早急な修復を行えば、概ね元の姿に修復しうる状態である。
修復は5カ年の計画で今年を初年度として、吽形像から作業を始める。
この二天像は、詳しい伝来などは不明であるが、像の持つ力強さや彫りの豪快な感覚、さらに残存する彩色の様子などから、南北朝頃の制作と考えられる、寄木造りの像である。邪鬼を踏みしだいて立つ2メートル近い像の大きさのみならず、現存する体幹部の様子から、すぐれた造型感覚と彫塑技術を持つ仏師の手になるものと考えられる。
【出典:二天立像の修復に資金援助された住友財団HPを参照】
逆に言えば前年撮影できたのがラッキーだったかもしれません。
鎮守 国神社
鉢ケ峰国神社
神社前鳥居
参道
「和泉名所図会」の挿絵では「チンジュ」と記されています。法道寺中門前の堺市公園墓地内にひっそりと祀られています。明治時代に片蔵の櫻井神社に合祀されているためか、扁額も何も飾られていません。
国神社由緒略記
和漢三才図会の記述によると、鉢ケ峯神社(旧国神社)上神郷鉢峯にある。祭神 天照大神 縁起にいう。垂仁天皇八年に、天照大神が鳳凰に化してこの襲峯に降った。垂仁天皇の皇子が登臨して化跡を礼祭したので、神郷という。景行天皇二十四年に神託によって、武内宿禰に命じて社を営み、五十五年に神鳳を千種森に移した。今の大鳥神社がこれである。「旧事紀」にいう。大己貴尊は天羽車大鷲に乗り、妻妾を求めて節渡県(節渡は茅渟と書くのに当る。茅渟は即ち今の和泉の地である)に下向した。大陶祇の女活玉依姫を娶って妻として往来した時、人はそのことを知らずして密かに往来する間に女が懐妊した。父母は疑い怪しんで、誰が来るのか、と問うと、女は答えて、神人が装い来て、屋上から降って来られ、共に臥すだけである、と言った。そこで父母は早く正体を知りたいと思って、麻を績んで綜を作り、針で神人の短裳に掛けさせた。明朝掛けたものに随って尋ねいくと、鍵穴を抜けて節渡山にを経て吉野山に入り三諸山に留まった。それで大神であるとわかった。綜の残りを見ると、ただ三わげであったので、三輪山と名付け大三輪神社という(「泉州志」にいう。大己貴尊の降臨の地はこの山か。陶邑も近い。かつこの地を上神と名付けて加無都美和と訓むのは、大和国の三輪に対していうものか)。と書かれている。
襲の峯
鉢峰山頂上襲の峯にある石祠
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